「「古事記」は『独立宣言』だった?!」カテゴリーアーカイブ
「古事記」は『独立宣言』だった!?【9】
大海人皇子は天武天皇となり、親『新羅』姿勢を明確にします。 天武の次には息子ではなく皇后が、持統天皇(在位690年~697年)として即位します。 彼女も天武天皇の外交方針を引き継ぎ、親『新羅』政策をとりました。 しかしそ … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【8】
天智天皇の次に権威を持つのは、本来なら息子です。 しかし年齢的にもそれまでの経緯からも、弟の大海人皇子が皇太子となっていました。 反『百済派』の面々は、彼に接近したはずです。 天智天皇を取り巻く『百済』人達が、これを見過 … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【7】
『百済』が滅びた時、その生き残りが長年親しい関係にあった日本に亡命していました。百済王朝の官僚達の中には、天智政権の官僚として仕える者もいました。 実は『百済』は、300年代の後半つまり中国を『隋』が支配している頃に「日 … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【6】
日本の場合は大陸部とは様子が違います。 大陸から見れば東の海の向こうの島ですから、海あるいは島の海岸線が国境となります。 『唐』や『新羅』がよほど必要性を感じなければ、海を越えて まで攻めては来ません。 それでも白村江で … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【5】
話を元に戻しましょう。 大国『唐』から見れば取るに足らない僻地でも、そこに住む弱小途上国間では民族の存亡をかけた策略と争いが展開されていました。 660年の『百済』滅亡後、日本は『百済』の残党から求められ、「日本・百済残 … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【4】
前回「500年代後半から600年代前半の海外環境を見る必要がある」と述べました。 その時期を中国に当てはめれば、589年に中国を統一した 『隋』と、618年に取って代わった『唐』の時代です。ですから『随』『唐』が、周辺に … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【3】
では、古事記が編纂された頃の国際環境を考えてみましょう。 その時期ですが、古事記の『序』に歴史編纂を発案したのは天武天皇であると記されており、天武天皇の即位期間673年~686年、つまり600年代後半ということになります … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【2】
日本の古代を考えるときに「古事記」「日本書紀」と並んで出てくるのが「魏志倭人伝」です。 これは「魏志倭人伝」という書物があるのではなく、「魏書」の中の「倭人」について書かれた部分のことです。 そこに「倭人」の風俗や住む所 … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【1】
2013年、明けましておめでとうございます。 去年で古事記編纂から1300年目の区切りの年は終わりましたが、このブログには関係無しです。 昨年後半、古事記に登場する重要と思われる神様について書いてきました。 まだ終わって … 続きを読む →