特集:今こそ古事記を読もう【其の四】

先に述べたように、天武には二人の息子がいました。
一人は正妻との間の子「草壁皇子」、もう一人は正妻の姉との間の子「大津皇子」です。

諸誌によれば「大津皇子」の方が後継者に相応しかったようで、天武もその気だったとしています。
ですから皇室を取り巻く大方の見方は、天武を継ぐのは「大津皇子」だったようです。

しかし、正妻は何が何でも自分の子「草壁皇子」をと考えたようです。
686年9月、天武天皇が亡くなりますと、正妻は思い切った行動に出ます。
10月、甥である「大津皇子」24歳を、謀反の罪で自決に追い込んだのです。

ライバルを倒したのですから、自身の子「草壁皇子」25歳に皇位を継がせたのかと思いますが、そうはしていません。
「大津皇子」事件が尾を引いており、若い「草壁皇子」では収拾不可能と考えたのか、翌687年、正妻自らが持統として41代天皇の座につきます。

多分彼女は、適当な時期に息子に天皇の座を継承させるつもりだったのでしょう。
ところが2年後の689年4月、その息子が28歳の若さで亡くなります。

後継者と目していた息子を亡くした持統天皇は、落胆したはずです。

しかし彼女は、悲嘆で泣き暮らすようなナイーブな女性ではありません。
草壁皇子の息子、つまり彼女直系の孫である軽(かるの)皇子を42代文武(もんむ)天皇とします。
弱冠15歳の天皇の誕生です。

この時、藤原不比等の娘宮子が嫁入りしています。
ここで藤原氏と皇室がつながります。

この文武の父親は天皇にならずして亡くなった草壁皇子ですが、母親はアベノヒメミコと言い、彼女の父親は天智天皇です。

「えっ!!」という感じですね。

【天智~聖武天皇系図】
 ↓下の画像をクリックすると新しいウィンドウでPDFファイルが開きます。
  (※うまく開けない場合は、画像の上で右クリックして[新しいウィンドウで開く]を選択)

古事記おじさんの日本のはじまり探し【天智~聖武天皇系図】

先に述べましたが、草壁皇子の父親は天智天皇の弟の天武天皇で、母親は天智天皇の娘の持統です。
持統には大田皇女という同腹の姉がおり、彼女も天武の妻です。
当時としては当然のことですが、天智天皇には別の女性との間の娘アベノヒメミコもいたのです。

つまり、持統とアベノヒメミコは、腹違いの姉妹です。
持統は、この腹違いの妹を、息子の草壁皇子の妻にしていたのです。
ですから持統の孫である軽皇子の母親は、持統の妹ということです。

文武が15歳で天皇となったのは697年、持統は702年に亡くなったとされていますから、持統は約5年間、文武天皇をバックアップできたわけです。

持統が亡くなった時、文武はまだ20歳です。
その5年後、文武天皇は25歳で亡くなります。

祖父天武天皇以来の様々な軋轢と、祖母持統天皇により15歳という若さで天皇にされ、年齢・経験・態勢が整う前に祖母の後ろ盾を失った心労が、彼の寿命を縮めたのでしょう。

文武天皇には首(おびとの)皇子(後の聖武天皇)という息子がいましたが、まだ子供でした。

母親は藤原不比等の娘である宮子です。
この時点で持統は既に亡くなっていますから、後継問題に発言力を持つのは、持統の妹で文武天皇の母親であるアベノヒメミコです。

彼女に権力に対する野心があったかどうかは分かりません。
しかし、亡くなった息子・文武天皇の嫁は、力を付けてきた藤原不比等の娘です。

不比等は、天皇の祖父となるために娘を嫁がせたのでしょうから、孫である首皇子に皇位を継がせる道筋作りを考えたはずです。

そこで不比等は、孫が天皇にふさわしい状態になるまで他勢力が入り込まないよう、文武の母親アベノヒメミコを天皇とすべく動いたのではないでしょうか。

彼女も、直系の孫を天皇にしたかったはずです。

アベノヒメミコと不比等の思惑が一致し、43代元明天皇が誕生したと思われます。

【天智~聖武天皇系図】
 ↓下の画像をクリックすると新しいウィンドウでPDFファイルが開きます。
  (※うまく開けない場合は、画像の上で右クリックして[新しいウィンドウで開く]を選択)

古事記おじさんの日本のはじまり探し【天智~聖武天皇系図】

【其の二】でも述べましたが、古事記の序は元明天皇を大賛美しています。
それだけ素晴らしい天皇が、天武天皇が指示していた歴史書の編纂を具体的に命じたとしている訳です。

これまで述べてきましたように、38代天智天皇誕生(661年)から43代元明天皇誕生(707年)までの46年の間に、6人の天皇が入れ替わっています。

それは血みどろの骨肉の争いを伴うものでした。
皇族ですら殺し合いをするのですから、それにつながる高官や部族の間でも陰湿な戦いが繰り広げられていたはずです。

このような状態では、『国家の最高権威』に対する信頼は言うまでもなく、認識すらどうなっているか分からなかったと思われます。

これって、今の日本の状態に似ているとは思いませんか?

1300年前、『最高権威』を認識させ、信頼させなければならない事情があった訳です。
その事情ゆえに編纂されたのが、古事記だったのであろうと考えています。

以上の背景を頭に入れた上で古事記を読みますと、単なる神話ではないとお分かり頂けるはずです。

おしまい

【特集】今こそ古事記を読もう
 https://www.kojinazo.net/?p=41

■今こそ古事記を読もう!【其の一】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1372

■今こそ古事記を読もう!【其の二】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1374

■今こそ古事記を読もう!【其の三】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1378

■今こそ古事記を読もう!【其の四】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1381


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。