「天武天皇」タグアーカイブ
活断層の分布と古人(いにしえびと)の知恵【2】
日本最古の災害報告書は、日本書紀 『無常観』の傑作としては「平家物語」も有名ですが、これは自然が相手ではなく人の営みに対してですから、災害で思い浮かぶものではありません。 実は、災害を記した最古の書物は『日本書紀』です。 … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【9】
大海人皇子は天武天皇となり、親『新羅』姿勢を明確にします。 天武の次には息子ではなく皇后が、持統天皇(在位690年~697年)として即位します。 彼女も天武天皇の外交方針を引き継ぎ、親『新羅』政策をとりました。 しかしそ … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【6】
日本の場合は大陸部とは様子が違います。 大陸から見れば東の海の向こうの島ですから、海あるいは島の海岸線が国境となります。 『唐』や『新羅』がよほど必要性を感じなければ、海を越えて まで攻めては来ません。 それでも白村江で … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【3】
では、古事記が編纂された頃の国際環境を考えてみましょう。 その時期ですが、古事記の『序』に歴史編纂を発案したのは天武天皇であると記されており、天武天皇の即位期間673年~686年、つまり600年代後半ということになります … 続きを読む →
「古事記」は『独立宣言』だった!?【1】
2013年、明けましておめでとうございます。 去年で古事記編纂から1300年目の区切りの年は終わりましたが、このブログには関係無しです。 昨年後半、古事記に登場する重要と思われる神様について書いてきました。 まだ終わって … 続きを読む →
今こそ古事記を読もう【14】
後継者と目していた息子を亡くした持統天皇は、落胆したはずです。しかし彼女は、悲嘆で泣き暮らすようなナイーブな女性ではありません。 草壁皇子の息子、つまり彼女直系の孫である軽(かるの)皇子を42代文武(もんむ)天皇とします … 続きを読む →
今こそ古事記を読もう【13】
【10】でも述べましたが、天武には二人の息子がいました。一人は正妻との間の子「草壁皇子」、もう一人は正妻の姉との間の子「大津皇子」です。 諸誌によれば「大津皇子」の方が後継者に相応しかったようで、天武もその気だったとして … 続きを読む →
今こそ古事記を読もう【12】
『壬申の乱』を極端に簡単に言ってしまえば、「親百済」の天智系と「国粋派」の天武系の戦いです。 天智は即位後、後継は弟の天武を考えていたようです。だからこそ二人の娘を天武に嫁がせたと考えられますが、いつしか息子の大友皇子を … 続きを読む →
今こそ古事記を読もう【11】
天武は当然のことをしたのでしょうが、同様に当然のこととして、母親は自分の子供に権力を委譲したいと考えます。 これから先を理解するには、天武が如何にして天皇になったかを知っておく必要があります。 そこでその経緯を簡単に述べ … 続きを読む →
今こそ古事記を読もう【10】
後世に正しい歴史を伝えようと言い出したのは天武天皇ですが、それがいつかは分かりません。天武天皇の在位は673~686年の13年間ですから、そのどこかです。 分からないのですから、真ん中をとって680年頃としておきましょう … 続きを読む →