社各 | 無各社 |
祭神 | 須勢理毘売命(すせりびめのみこと)「毒虫・蝮よけの守り神」 菅原道真命「学問・文化の守り神」 |
住所 | 鳥取県西伯郡大山町唐王 |
例祭日 | 四月二十五日、虫よけ大祭 旧八月三日 |
建造物 | 本殿・幣殿・拝殿・神楽殿 |
境内坪数 | 220坪 |
氏子 | 40戸(明治13年に記された社伝には12,300人とある) |
「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神徳はこの地方に広くゆきわたっております。
ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。 当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々な方法で試されたのでした。 最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。 大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。 その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦となられました。 後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なものがあります。 この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。 現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にまけばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。 旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名物「どじょう汁」の売店もあります。 <昭和49年 汗西神社案内> ※現在は整備事業の為水脈が変わり、水は出なくなりました。 須勢理比売命[すせりびめのみこと]は古来唐王御前神社と号し、普[あまね]く諸民の尊崇他に異れる旧社なり。 社伝に曰く、須勢理比売命は、大国主大神と共に夜見[よみ]の国より帰り座して、土地経営の神功を畢[お]へ、稼穡[かしょく](農業)の道を立て、疾苦患難救助の神咒[かじり]の法則[ことわり]を萬世に垂訓し給ひて、大国主大神は永く日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)に鎮座し、須勢理比売命は比地に鎮座す。 故に該神社域内宏大なりしこと、往古の規模を存せり。字御前畑[あざごぜんばた]と申所西側にあり。 井屋敷とて御手洗の井泉東側にあり、今は人家の邸内となれども汚穢[おあい]の輩[やから]此の水を汲めば忽[たちま]ち濁る、即ち社前の砂を投じて浄むれば、自ら清水となる。 社伝口碑に據[よ]るに、此の所正しく須勢理比売の御陵[みささぎ]ならむと。太古より一社の伝説あり。 蓋[けだ]し該地位は大山を距[へだた]る三里、夜見浜を距ること三里強、其の中間にあり。 往古は此地も出雲の国境なるや詳[つまび]かならざれども、出雲風土記に「持曳く綱は夜見島是なり云々」中世海洋を隔[へだ]つる外国は総て加羅と通称せり、故を以て夜見国より帰り給ひをも唐土より来り給へるものとし、又大国主大神の后神[きさきがみ]なるを以て唐王御前神と稱[たた]へ奉りしなり。 亦、命の御陵と認むる所以は、神験不測[しんけんふそく]の神呪方神蹟[しんせき]今猶此地に存在す。 本殿の下に方一間余の石の玉垣あり、其中に高五尺余の古造の碑石あり。中古仏者の為に惑わされ、命の尊陵たるを知らず。往々祭祀を廃絶し社字衰頽す。 諸人該玉垣内の砂を請ひ或は之を御手洗の井泉に撒きて其の身を清むれば、年中虫毒の難に触るること無く、適其害に遭ふも其水を温湯にし砂を入れて紙に涵し、身体の損傷せし所を摩拭すれば疼痛忽ち止み全癒す。故に崇敬の信徒日に増し月に加はる。 <鳥取県神社誌> 古事記には、お二人は杵築の日隅宮[ひすみのみや](出雲大社)でお暮らしになったと記されております。ですが唐王は、出雲から二十余里(80km強)も離れております。 そのように離れてお暮らしになったことに疑問が生じますが、当時はこの地方も出雲の国であったと思われます。 別居された理由は、次の一節により推察されます。 『大国主神[おおくにぬしのかみ]が領土一切を天照大神[あまてらすおおみかみ]に献上された時、高皇産霊神[たかみむすびのかみ]はその功をお賞めになり色々恩賞を賜った上に「汝[なんじ]このたび帰順すとも、国神[くにつかみ]の女[むすめ]を妃[きさき]として居[お]っては信用ができにくいであろうから故、吾が女[むすめ]三穂津姫[みほつひめ]を汝に賜ふ。汝よく八十萬神[やおよろずのかみ]を率いて、永く天神[あまつかみ]の子孫を護れ・・・」と仰せられ、大国主神はこの有難い御錠[おおせ]に感涙を催して奉答された』 以上のような経緯により、大国主神には新たに三穂津姫という天神の女である妃ができたのです。 ですから須勢理比売命[すせりひめのみこと]は唐王の別墅[はなれや]にお移りになったと想像できます。 唐王[とうのう]という村名は、実に奇妙です。鳥取県神社誌にありますように、往古殆ど交通[ゆきき]のなかった頃は、海の向こうや遠方の国はみな加羅[から]と称していました。 ですから夜見の国から船で来られた須勢理比売命を、唐[から]の王と称してきました。 それが村名になったとのことです。 尚、須勢理比売命は海辺の近くの国信辺りにお着きになったが、波の音が近すぎると末吉へお移りになった。しかしそこも音が近く末長へお移りになった。そこでもまだ音が近いと唐王へお移りになったとの言い伝えもあります。 現在のように医薬が発達していなかった時代、蝮や毒虫は人々の暮らしに危険この上ない存在だったと想像できます。 明治初期の氏子が12,300人で、その範囲は中山町から東出雲町にまで及んでいたのはそれ故でしょう。しかし蝮や毒虫の危険が減るに連れ、往年の参詣者は減り賑わいも無くなりました。 蝮や毒虫の危険が去った時代にはなりましたが、昔ながらの悪い虫はまだいます。 それは、女性にとっては男性、男性にとっては女性です。 この「害虫」に対する須勢理比売命の神通力は今なおこの地で信じられています。 |