こんにちは、古事記おじさんです。
いつもブログを読んで頂きありがとうございます。
さて、今日はお知らせがあります。
というのも、このブログを読んで頂いている読者の方より、「もう少し古事記の全貌を知ったうえで、 謎解きブログを読み進めたい・・・!」という、ご相談を頂きました。
・・・確かに、今、ブログで紹介している謎解きは、ある程度、古事記を知った方であれば、「なるほど」と理解ができると思いますが、まだ、古事記について知識のない方には、少し難しいかもしれません・・・
そこで、今回は、山陰が舞台となっている古事記を、わかりやすく解説した、入門マニュアルをご用意することにしました↓
※マニュアルは其の一から其の四までご用意しています。
この入門編では、ザックリとした「あらすじ」をまとめているので、10分もあればすべて読み終えることができます。
是非、このマニュアルを読んでみてください。
あなたの知らない“古事記の謎”が一層深まるかもしれません・・・
入門マニュアル
どうも有難うございます。
私のちょうどいいレベルです。
>せいちゃんさん
コメントありがとうございます。
入門編で分からないことがありましたら
なんなりと質問して下さいね。
>せいちゃんさん
コメントありがとうございます。
古事記を読んだことがない方でも
分かるようにとブログも書いております。
週2回の更新ですので
是非とも読んでみて下さい。
出雲、美穂神社の屋根の様相が、国津神のものと、天津神のものであり、千木について、しらべていくうちに、美穂神社の祭神が、ぬながわ姫(越の国)なのか、大国主命との間にできた娘、美穂須々美なのか、判断できずにぬながわ姫のほうをしらべにいったのですが、美穂須々美の行方が不明です。
なにか、ご存知ありませんか?
美穂神社はかなり重要
http://hakujya.blog.ocn.ne.jp/hakujya2/cat11400478/index.html
沼奈宣破比売(ぬながわひめ)
http://hakujya.blog.ocn.ne.jp/hakujya2/cat11397171/index.html
(蘇民将来/スサノオ)を調べていくうちに、スサノオが茗荷峠で海の民と別れたというのがあり、この海の民は鞆あたりのもので(沼名前神社》帰路に神谷川(かやがわ)があり、スサノオ神社(蘇民将来の本拠地)もありこれが、蘇民将来の茅をとった場所ではないかということで、神谷川に注目して、水神を調べれば、ぬながわ姫がうかびと、いろいろ、紆余曲折しているのですが、
越の国の技術が翡翠文化であったところで、
出雲王国が越の国に手をのばしたと思われるのです。大和朝廷との政権交代を象徴する翡翠文化の衰退を物語るかのような美穂須々美の行方不明がきになています。
>憂生さん
憂生さん、貴方のおっしゃる「美穂神社」とは「美保神社」のことでしょうか?
「美保神社」でしたら、現在神社が公表している祭神は「事代主(コトシロヌシ)」と「美穂津(ミホツ)姫」二柱です。
出雲風土記には、沼河(ヌナカワ)姫とか美穂須々美の名がありますが、現在の美保神社関係者は古事記の記述を正当とし、風土記の記述は全く無視しています。
出雲風土記の記述は、国引きのところで「高志(こし)」の三埼(みさき)を引っ張ってきて造ったのが「三穂の埼=美保の崎」としている関係から、北陸地方との関係を入れたのかも知れませんが、厳密に言えばヌナカワ姫は信州であって北陸はその入口ですから、かなり無理があると思います。また美穂須々美をヌナカワ姫の娘と解釈できる記述になっていますが、これは天津国に乗っ取られた印象を薄めるために敢えてぼかそうとしたからではないでしょうか。
と言いますのは、山陰地方には出雲は大和に無理矢理乗っ取られたとの感情が今でもあり、当時はその気持ちが遙かに強かったと思われるからです。大和としてもその感情を無視できず、出雲に対する優遇策を提供していたようです。
その一つが出雲大社であったとの考え方もあります。
ご存じのように出雲大社の構造は大国主を正面に置いていません。
その理由に対し様々な解釈がありますが、古くから地元に住む人にとってそれはどうでもいいことなのだそうです。
彼らは拝殿にお参りしても、本殿に対してではなく真裏のスサノヲを祀る社にお参りしているのだそうです。つまり国を売り大和にすり寄った大国主にお参りする振りはしますが、心の中では国の礎を造ったスサノヲが対象なのです。
…長いので続きます。
>憂生さん
…その1の続きです。
屋根の様相が国津神と天津神で形が違うというのは初めて聞きましたが、千木のことでしょうか?。
氏子さんや神社関係者に聞きましたところ、「千木に関しては、俗説としてそのような話が流れたことがあったが根拠はなく、今そのように唱える人はほとんどない」との返事でした。
男女で千木が異なるのは概ね正しいそうです。先が上に向けて尖っているのが男で、横向きが女です。しかし全てがそうなっている訳ではないそうです。
翡翠に関しては、大国主は翡翠の利権を求めて諏訪へ行ったとの説が因幡にあります。
その説では、因幡の八上(ヤガミ)姫への接近も翡翠がらみとしています。
彼女の住む河原町には翡翠が出ていたそうですが、色が悪く、評価されなかったそうです。そこで最高の品質が出土する諏訪を取り込もうと沼河姫に近づいたという解釈です。
古事記の「八千矛の妻問い」がそれだとしています。
でもこの説には無理があります。大国主が八上姫と婚約したのは、彼が一介の若者に過ぎないオオナムチの時であり、利権をどうこうする立場ではありませんでした。
諏訪との接触を始めたのも、大国主ではなく須佐之男だったと考えられます。これはオロチ退治のところで、オロチは「越」から来たとの表現があることにより、須佐之男が越の部族と接触していたことをうかがわせているからです。
「大和朝廷との政権交代を象徴する翡翠文化の衰退」に関しては、寡聞にして判断ができかねます。
翡翠に関して、勾玉作りの専門家に聞きましたところ、翡翠で作ったものが最高だそうです。しかし、勾玉が何を目的としてあの形に作られたかは、彼にも分からないそうです。権威を示す装飾品であれば、もっと違った色々な形があってもよかったのではないかとも思えるそうです。
まず、千木のことですが、この神社の様相に疑問を感じていたところ、男女という説よりも、
(いざなぎ・いざなみが同祭されていたり、女神であっても(ふるい時代ほどそのようですが)水平の千木になっています)
伊勢神宮のほうも本宮が水平でありながら、外宮が垂直であったり)出展をお知らせすることはできませんが、ある方から水平が天津神・垂直が国津神ときかされていたので、この考えで推し進めていったところ、日御碕神社で、謎がとけた気がしました。
昼の国を護れという天命をうけたアマテラスが伊勢神宮では、天津神とした様相の神社におさまっているわけですが、
夜の国を護れといわれたスサノオ・日御碕神社では、スサノオが水平の千木、後に立てられたアマテラスのほうが垂直・国津神の様相です。
そして、この千木のルーツがタイなどの牛の骨を酋長の家に掲げるというものだと思え、
牛頭大王が仏教の守護を司るということと考え合わせ、千木は結界の意味あいがあるとおもいます。
そして、天命。天じきじきの神が天を受ける水平。
そして、周りからの加圧?に対抗する守りのすがたが垂直と考えると
伊勢神宮・日御碕ともども、天津神を護るものとして、千木が垂直になった外宮にあたるものがある。と、いう考え方になったわけです、
こう考えると天津神のぬながわひめを天の千木・スサノオあるいは、大国主命を国津神として、ぬながわひめを丁重におむかえしながら、ならびたてることで、夫婦という同等の位置を顕して行ったのではないかと思え、出雲国にとって、越の国はかなり重要でいささか、政略結婚のきらいがあったとおもいます。
三保神社でしたか?、ここには、ニギハヤヒがかけつけたという話もあり、羅馬船にのってきたというすくなひこともども、馬をかんがえさせられる部分で、にぎはやひ・にぎたつの関連で愛媛のほうにもなにかしらかかわるところがないか、さらに野生馬をしらべていくと、愛媛に野生馬がいた気配があり、河野氏がうかびあがってきたところ、三穂崎にことしろぬしの釣り場があり、ここに鳥居があり、この鳥居に河野氏の紋がはいっている。と、いう奇妙な状況にもいきあたっています。
出雲大社は大国主命の御霊を鎮めるためということで、封印(怨霊?)の意味合いがあるのは、有名な話ですが、これは、どうかんがえても、
大国主命に対し、あれほどの社を建てることは合点がいかず、スサノオを封印しているのだという思いはしていました。
その根拠(感情的根拠)は別にして、スサノオを封印しながら、なぜ、国津神(地方豪族)の様相にしたか。ということです。
おそらくですが、日御碕のことを考えると
スサノオは天津神の千木でおかしくないはずです。
天津神殺しになったとき、なにを考えたかといえば、スサノオに対しては、天にもっとも近い場所にお祭りしなければまずい。だったと思います。
ところが、その社に天の千木をつけたら、スサノオ殺しは明白です。そこで、大国主命を替え玉にした。
彼ならば、国津神でかまわないわけで、
こうなってくると、大国主命というのも、
スサノオという名も「おおなもち」のひとつでしかなく、大国主命=スサノオという考えも成り立ちます。そして、スサノオ個人では、どちらの扱いになっているのか、千木をさらにしらべていたのですが、千木のない様相の造りになっていたり、
祀り変えがあったり・・。
さらに調べていけば、ウガヤフキアエズ王朝がスサノオだったのではないか?
また、ニギハヤヒであった可能性もあり・・
と、謎が深まる一方です。
事代主と美穂津姫では、神社由緒によれば、
父親の愛人?と息子という組み合わせになると思います。
これは、妙なことで、美穂の地名が美穂津姫からとられたという説があり、ぬながわひめは故郷に帰ったということにもなっていますから、美穂津姫が美穂須々美であったか?
あるいは、一度は美穂で暮らし、美穂須々美を人質?のごとくおいてかえるしかなかったか?
そう考えると、元々はぬながわひめをむかえいれるためにたてられた天津神の様相と同じに並ぶ、国津神の千木は夫であるものをあらわしているとかんがえられるわけで、
目下こういう様相の二つ並んだ天と国の千木をもつ神社がないかと思っています。
>憂生さん
古事記謎解き旅ガイドの12頁に紹介していますが、剣神社(松江市八雲町日吉)の千木は、
手前が垂直で奥が水平の珍しいものです。
是非、現地でお確かめ下さい。
松江までいくことはできないので(当方、広島です)ガイドのほうを拝見します。
どういう由緒なのか、興味深深です。
先に剣神社のほうで、しらべてきたのですが、福井県の織田にあるのが、最初でしょうか?
織田明神ですね。
これは、気比神宮が、宇気比(誓約)の意味合いであると思い調べた時に、織田のほうも調べてきたものです。
宇は宇宙の宇であり、神をさす言葉でありますが、この近くに日向から流れ着いた神をまつったかと思う、宇波西神社というのがあり、祀られているのが、ウガヤフキアエズです。
そして、神事として、ウガヤフキアエズの海彦・山彦のあらそィを彷彿させる、王の舞というものが残っています。海流的に日向から、そこにながれてくるのは可能なことで、呼び名は違いますが、日向という地名もあります。
そして、岩国だったかな?みみ浜という地名がありますが、ここで、初代天皇(名前どわすれ)が造船をおこなったというのがあり、字は違いますがみみ川もあったと思います。
その地名が織田のちかくの川にもつけられていたり奇妙な合致があります。
実は広島の厳島神社が、本当の誓約の場所ではなく気比神宮が本拠地だったのではないかとさえ、思え、スサノオの足跡をたどってみたのです。気比神宮は、祀り変えがあったと思われる菊紋があり、スサノオを祀った様子はありませんが、大和タケル・・(すみません、変換できず・・)
なども実はスサノオの足跡をかたどったものではないか?とか・・。
越の国の技術を考えたとき、(翡翠・漆や和紙・刀剣・漆器・羽二重織・・など今に伝わるものも・・)出雲が越の国に手を伸ばす気持ちもわかりますし、蘇民将来などを考えると、(北方遠征の帰りに再度立ち寄る)かなり北のほうまで、手を伸ばしていた事が伺えます。
鞆の沼名前神社などは、ジングウ皇后が、(すみません、古いワードのせいか、変換がききません)がおおわだつみをまつったわけですが、
これが、今はすさのおが合祀されています。
様相は国津神です。
オオワダツミなら、天の様相ではないかとおもうのですが・・。
考えられることは、元々スサノオを祀っていた場所をオオワダツミにまつりかえた。
ここで、問題になるのが、やはり、千木です。
スサノオがこのあたり一体を平定して、元にあった国津神の場所にまつられ、さらにオオワダツミにまつりかえられたか?
その地方においての天津神として、スサノオは出雲では、天津神としてまつられているのだろうか?
と、いうことで、他の神社を須佐神社とか・・しらべたとおもいますが、千木がある写真がみあたらず、放置のままです。
貴女がおっしゃったように、千木の意味合いがわからず新たに社殿を立てるという事もあると思いますし、地方によっての天津神もちがう。
大和朝廷が、祀り変えをした可能性があるのは、美穂神社の菊紋で考えられることでもあり、
もし、そうなら、何故、事代主にしたか・・。
(以下、歴々の天皇の系譜があるせいだとおもいますが)大国主命ではまずかった。
あるいは、大国主命は出雲大社にいるわけだから、ここにいてはおかしい?
など、千木からみたものごともあり、
話がどんどん飛びますが、
元伊勢の存在なども思うと
かなり周到な隠ぺい工作がおこなわれたような。
鞆の沼名前神社はぬなくまとよみます。
前はくまそのものだったものをスサノオが平定したともよみとれます。
茗荷峠で別れを惜しんだ海の民はこの鞆で、スサノオの傘下にはいったものたち。
こう考えると蘇民将来の話が見えてくるきもします。
まとまらず、長々とすみません。