「とりかみ」が「船通山」に変わったのは江戸時代だそうです。
その理由は、『スサノヲが、息子のイソタケルと朝鮮半島から船でやってきてこの山に着いた』という記述が根拠になっているようです。
出典として風土記抄・雲陽軍実記などが言われていますが、イザナミの墓所である比婆(ひば)山を広島県に比定したことと同様に、江戸時代の国学者グループによる意図的改ざんであろうと考えています。
その理由は、「とりかみ」を「船通山」に変える必要は全くないにもかかわらず、極めて非合理的な理由をこじつけて変えてしまった点です。
彼らには「とりかみ」という過去とつながる名前を消さなければならない必要性があったとしか考えられません。
・・・つづく
「とりかみ」抹消の必要性…
とっても気になります。
>ねえさんさん
いつもありがとうございます。
気になりますか?
明日続きをアップしますので
楽しみにしていて下さい。
家康公と天海和尚は、国学のスペシャリストで、自身の氏素性のこじつけならならず、多くの著名人の氏をしらべてい調べていた様子なので、天皇家より古い家系(日本に住み始めた)の毛利氏を恐れたのではないでしょうか?