ヤガミ姫が、因幡に帰って後結婚をしたという話が伝えられていません。
その上因幡地方では、女性であるにもかかわらずヤガミ姫を統率者であったように扱っています。
更に彼女を祀る売沼(めぬま)神社の千木は、上が尖った男神をあらわす形をしています。
女性であっても男性のような行動力を持つ祭神に男神の千木を付けるケースは、伊勢系には多々あります。因幡地方の神社に圧倒的に伊勢系が多いことから考えても、因幡は伊勢の傘下にあったと考えるべきでしょう。
因幡は、スサノヲから大国主へ権力委譲が行われた後は、木股(きのまた)神を通じて出雲勢力との友好関係を維持してはいたが、軸足は伊勢へ移していたと考えられます。
このように考えさせるのが、米子市にある阿陀萱(あだかや)神社の存在です。
この神社には「ヤガミ姫が木股神を連れて里帰りする途中、木股神が榎に指を挟まれて身動きがとれなくなり、民に請われて住み着き亡くなった場所」との伝承があります。
木股神を出雲と因幡の中間点の米子に住ませておけば、大国主もヤガミ姫も子供に会いに行くということで接触ができます。ヤガミ姫はその後結婚をしないことにより、大国主との関係は断絶しません。
つまり出雲との関係を継続しながら伊勢とも関係が持てる環境を維持したのではないでしょうか。
スサノヲの存命中は、出雲が最大勢力であったと思われます。
しかし彼の死後徐々に求心力が衰え、伊勢が席巻を始めます。
国譲りにより伊勢の単独権力が確立するのですが、それまでの間、周辺勢力は出雲と伊勢を両睨みせざるを得なかったのでしょう。
出雲に近い因幡としては、部族存亡にヤガミ姫を利用したのではないでしょうか。