話を元に戻しましょう。
大国『唐』から見れば取るに足らない僻地でも、そこに住む弱小途上国間では民族の存亡をかけた策略と争いが展開されていました。
660年の『百済』滅亡後、日本は『百済』の残党から求められ、「日本・百済残党連合軍」対「新羅・唐連合軍」の戦いをすることになりました。
これが白村江の戦い(663年・天智2年)ですが、稚拙な戦略により大敗します。
当時も今も、敗戦国は領土を取られるのが当然ですが、日の出の勢いの『唐』は「極東の僻地の海を越えた島」などどうでもよかったのでしょう、要求しませんでした。
この敗戦により、600年代中頃の日本に「国防・外交と、それを可能にする政治体制」が必要だとの意識が生じたはずです。つまり『唐』や『新羅』から『国』として認められたいとの意識です。
今の社会で、誰かが「ここは俺の国だ」と言っても『国』としては認められません。国際社会から『独立国』として認められる必要があるのですが、以下の条件があります。
1:『国土』があること
2:『国民』がいること
3:国内の法律つまり『国内法』があること
4:外国が認めた法律つまり『国際法』があること
5:自国を守る『軍隊』があること
600年代の『独立国』の条件は、現代よりはずっと単純だったと思います。周辺諸国からの攻撃を跳ね返す力を持てばよかっただけでしょう。
とは言っても大陸部は地続きですから、どこかに線引きをして国境を作り、常に他国の侵入や攻撃を防げる状態にしておかなければなりません。
これを維持し続けることができる地域が『独立国』で、その地域のトップが他地域のトップから皇帝・王・天皇として認められるのです。
つづく・・・