当時西日本の盟主であり、権威を持ち始めていた『出雲国』が素直に応じ統合を進めたのであれば、『高天原=後のヤマト朝廷』は、あの『出雲国』がそのような対応をする由緒正しい『権力』と流布できます。
しかし、武力で制圧したとなれば、『力』は誇示できても『権威』を認知させるまで時間がかかります。
古事記は『ヤマト朝廷』の正統性をより早く全土に認知させる目的を持っていたのですから、暴力沙汰はなかったことにしたのではないでしょうか。
さて、呼び戻されたコトシロヌシの答えは、あっけないほど簡単なものです。
大国主に「この国は、天つ神の御子に差し上げましょう」と言うと、乗ってきた船を「踏み傾け」と書いてあります。
足で船を揺らしたと思われます。
そして「天(あま)の逆手(さかて)を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」と書いてあります。
これは「手を打った」つまり「拍手(かしわで)」です。
呪術的なものであったとの説がありますが、どのようなものか不明です。
解説書には、「船を青葉の柴垣に変化させ、その中にこもった」と表現するものがあります。
しかし、海上に垣を作って隠れてもすぐに見つかります。
ですから、船を揺らして沈め、どさくさに紛れて姿を隠したと解釈する方が現実的です。
いずれにせよ、この後コトシロヌシは登場しません。
ところが、このコトシロヌシの後日談を伝える神社があるのです。
…つづく