葦原中国平定「コトシロヌシ」【2】

鳥取県倉吉市の「波波伎(ははき)神社」にコトシロヌシの後日談が伝承されています。

古事記おじさんのブログ-波波伎神社
波波伎神社

青柴垣(あおふしがき)に隠れたと伝えられていますが、実は船を乗り換え、海路この地にやって来たのだそうです。

その時の上陸地を「御旅場(おたびば)」

古事記おじさんのブログ-御旅場
御旅場

といい、その時以来神の所有地となり、現在も空き地になっています。

コトシロヌシは、後々のトラブルに巻き込まれるであろうと考え、この神社奥にある泉の畔に隠れ棲んだそうです。しかし、神々の行き来があったと伝えていますから、高天原の高官達が相談や監視に来ていたのでしょう。
コトシロヌシはそこで生涯を終えたそうです。

この神社のお祭りに、戦前までは美保神社の宮司が来ていたそうです。戦後は来なくなり、この地と美保神社のつながりを知る人はほとんどいなくなったようです。

しかしその名残が残っています。
この神社の近くに、「倭文(しとり)神社」

古事記おじさんのブログ-倭文神社
倭文神社

というシタテル姫をお祀りする神社があります。

由緒に「国譲りの後、出雲地方にいることに絶えられなくなったシタテル姫は、身の回りの世話をする者達と、この地に移り住んだ」とあります。

シタテル姫は妻木壹宮神社で紹介しましたが、「安産」の神様です。倭文神社も安産祈願に訪れる人が多いのですが、美保関地区からも、この神社に来るのだそうです。
車で2時間近くかかる距離です。

美保関地区の若い人達は「何故遠くまで行くのか?」と不思議に感じているそうです。でもお年寄りから「昔からそうなんだ」と言われ、「縁起事だから、お年寄りに従おう」とお参りに来るそうです。

その中の一人が、「古事記謎解き旅ガイド」を読んで「分かった」と連絡してきました。

美保神社地区と波波伎神社地区は、古事記の時代から海でつながっており、今では想像できないほどの交流があったようです。

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葦原中国平定「コトシロヌシ」【2】 への6件のフィードバック

  1. 古代史が好き のコメント:

    邪馬台国九州説の前提となっているのが天孫降臨の地=宮崎県である。
    しかしこの説自体の検証がなされていないことが問題である。
    こういう説もあります。
    高天原=蒜山、天孫降臨の地=伯耆国説http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi

  2. 古事記おじさん のコメント:

    >古代史が好きさん
    古事記・日本書紀に、邪馬台国も卑弥呼も紹介されてはいません。
    魏書や後漢書に紹介されていますが、その信頼度をどう判断するかは立場によって異なります。
    古代から相当な期間、日本から見れば大陸は先進地であり、多くを学んできました。
    これ故に、大陸からの情報は全て「正しいもの」との概念が出来上がってしまいました。(これは、戦後の日米関係に置き換えると分かり易いと思います。)
    正確度不明の大陸情報と、日本独自の歴史書(この正確度にも疑問符を付ける専門家?は少なくはありません)を都合良く合体させれば、『様々な説』が可能です。
    私は、当時の海外情報と国内情報を分けて考えており、このブログは国内情報を「是」とし、ロマンを語る立場で書いています。
    天孫降臨とは、アマテラスの孫であるニニギが高天原から降り立ったということですが、少なくとも国内情報に、天孫降臨地=伯耆国を推測させる記述はありません。
    伯耆国と言ってもかなり広範囲ですが、具体的には伯耆国のどこであり、その地に「それを示す伝承」があるのでしょうか?寡聞にして、その様な伝承の存在を知りません。
    また、蒜山地方の一部に「高天原は蒜山である」との説があることは承知しています。
    これを歴史的事実として唱えるなら「世間を納得させる」考古学的物証を提示しなければなりません。
    推論の積み重ねは、上述しました『様々な説』のひとつに過ぎません。「富士山=高天原」説と同列になります。
    仰る説の主張者の方々が「これが最有力の解」との確信をお持ちであれば、民俗学・考古学・地質学などを網羅した大々的調査を展開されることを期待します。

  3. 古代史が好き のコメント:

    古事記おじさんはじめまして、古代史が好きと申します。
    突然コメントしましたことをお詫びします。私は伯耆国の住民です。
    考古学上鳥取県には何もないと言われ続けて育った者です。しかし大阪あたりの人とは何か違うものがある。と感じてきました。そんな時大阪の方のブログ(新しい日本の歴史)(No428 天孫降臨は鳥取で行われました)に触発されて、私なりに調べてみました。
    その結果ニニギのみことの祀られている神社を点として、それらを線で結ぶと居所の移動が見えてきました。またお供の者も自然な距離に配置されていました。こんなことが故意にできるでしょうか。また何の目的があってこんな配置にしてあるのか。これは嘘ではないと思い調査を続けているところです。以下この説の要旨だけを記載します。

  4. 古代史が好き のコメント:

     縄文海進で海面が百数十メートル上昇すれば蒜山のような高いところに逃げるのは本能である。その後国譲りで蒜山から鏡ヶ成(猿田彦が鏡を使って連絡をした場所)を通ってすぐ下の関金に降りてきた。幼少期のニニギの命は関金(三ヶ所の神社に祭られている、神田神社 関金町泰久寺632番 日子番能瓊々杵命、 矢送神社 旧矢送村 関金町山口447番、日吉神社 関金町関金宿325番)で成長し上福田(楯縫神社)に移り、その後北栄町の上種(大宮神社)に御所を築いた。関金からほぼ真北に移動している。大宮(上種)以前(関金、上福田)はやまかげの場所ばかりで大宮(上種)を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。

  5. 古代史が好き のコメント:

     もと出雲国であり天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国である。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天太玉命は方見神社(琴浦町上伊勢100番地)に石凝姥命は倉坂神社(琴浦町倉坂1229番)に、天手力雄命は神郷神社(琴浦町大杉887番)に、天鈿女命は上里神社にまつられている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵の少し下ったところにある亀谷神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。

  6. 古代史が好き のコメント:

     天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、玉依姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。

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