交渉決裂のあとは、実力行使あるのみです。
交渉に時間をかけたということは、双方に戦闘準備の時間が十分にあったことを意味します。満を持して武闘派タケミカヅチが送り込まれたということは、高天原側は全面戦争の陣構えで乗り込んだと理解すべきでしょう。
古事記では、最終交渉の後に衝突があったことを窺わせる表現になっていますが、実際には出雲グループのいくつかの部族に対する離反工作が行われ、その後に互角の大激戦となったが、出雲側に離反者が出て終わったのではないかと考えています。
現にこの地方には大虐殺があったとの伝承がありますし、離反勢力に対する怨念の継承と思える感情論がありました。
勝者となった高天原勢力のその後の他地域での展開には、『出雲勢力とのあいだに流血は無く、国譲りは禅譲であった』との形が必要だったのではないでしょうか。
そのために、『血塗られた経緯を、分別に満ちた物語にしなければならなかった』。
そこに無理が生じ、辻褄の合わない部分が残ったのであろうと解釈しています。
大和武尊の話しなどは、血塗られていますが、ここのところを分別のある話しにしなくてはならなかったのは、やはり、相当な近親同士の、ちょっと後悔してしまうような、戦いっぷりがあったと思うべきなのでしょうか?
>エクス・アドメディアさん
遅くなり申し訳ございません。
高天原勢力による全国制覇は、二段階に分かれていると考えています。
第一段階が、近畿以西の平定です。
この地域は、出雲勢力が既に広く根を張っていたのではないでしょうか。
出雲勢力の中心地域を素早く、しかも平和裡に抑えれば、効率よく全体を抑えることができます。
万一そこで手間取り長期戦乱に陥れば、近畿以西が戦国時代のような「群雄割拠」状態になる可能性があったと思われます。
ですから実態はどうであれ『公の事実』として、流血無き『国譲り』を認知させようとしたと考えます。
実際には親出雲派による抵抗はあったはずで、それを伺わせるのが「ナガスネヒコ」との戦いです。
「ナガスネヒコ」は高天原勢力に敗れ、東に逃げたと伝えられています。
第二段階が、中部以東の平定です。
ここには、出雲勢力のような広く根を張る勢力は無く、各部族を叩き潰して北上したようです。
個別攻撃の場合、残虐な殺戮を吹聴することが、次に向かう勢力に対し「刃向かえばこうなるのだぞ」という脅しになります。
ですから対出雲勢力戦とは逆に、実態以上に血塗られた表現をしたかも知れません。
>古事記おじさんさん
いつも、丁寧な返答、本当にありがとうございます。 大変、説得力が有ります。