「古事記」は『独立宣言』だった!?【8】

天智天皇の次に権威を持つのは、本来なら息子です。
しかし年齢的にもそれまでの経緯からも、弟の大海人皇子が皇太子となっていました。
反『百済派』の面々は、彼に接近したはずです。
天智天皇を取り巻く『百済』人達が、これを見過ごす訳はありません。

『百済』人達は天智天皇に
「大海人皇子を皇太子となさっていますが、ご子息の大友皇子を後継者になさるべき」とささやき続けていたはずです。
更にそれだけでは足りないと、
「大海人皇子が新羅にそそのかされ、一刻も早く天皇の座に就こうとしているとの噂がございます」
といった類の耳打ちをしたのではないでしょうか。

日本書紀に、「671年10月に、大海人皇子が試されたが出家により難を逃れた」ことが記されています。
病床の天智天皇が「もう私は長くはない、あとはお前に頼むよ」といったようなことを大海人皇子に伝えたようです。
ここで「はいそうですか」と答えていれば、大海人皇子は殺されていたでしょう。
ところが彼は「そんな気弱なことは仰らないで下さい。私は出家して天皇のご回復を祈ります」と答えたようです。

この答えに、『百済派』は為す術がなかったのです。
同年12月、天智天皇が亡くなりました。
大海人皇子は還俗し、翌672年1月から8月まで甥の大友皇子と戦います。
これが壬申の乱です。
簡単にいえば「天皇家内の後継争い」ですが、朝鮮半島との関わりがなければ生じていなかった争いだったかもしれません。

つづく・・・

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