この動きに、相見家は肝を冷やしたはずです。
ところが恐らくこの頃、出雲大社の御祭神がスサノヲ命から大国主命に代わっているのです。またスサノヲ命降臨地の名称が、鳥上の峰から船通山に代わったのも同時期のようです。
つまり、天皇一族による大国主命に対する扱いに、変化が生じているのです。
相見家が、この変化を察知していたかどうかは分かりません。たとえ察知していても、生半可なことで警戒を緩めることはなかったと考えられます。
明治・大正・戦前と、天皇は「神」であり、「神国日本」の民はその臣であるとの教育がなされてきました。その教育の中で、大国主命は天皇家の祖たる高天原一族の忠実な臣であり、排除される存在などではありません。
戦後、天皇は人間宣言をし、「神」ではなくなりました。もはや血脈狩りなど考えられません。それでもなお、相見家は警戒を解かず、現宮司まで一子相伝の秘密を維持していたのです。
しかし、従来の古事記解釈とは全く異なった発想による私の「古事記外伝―イズモ・クロニクル―」出版を見て、2000年に及ぶ警戒を解いたのです。
現在の我々から見れば「何でそんなに警戒するの?」といった類のことですが、当事者にとっては生死を賭けた一大事だったのです。恐らく、祖に近い子孫は、「全ての男子が見付け出されては殺される現場」を見ているのだと思います。
では、なぜそのようなことが行われたのか?
これは私の推測ですが、「国譲り」は、古事記に記されているような「話し合い」と「代表者の戦い」程度で実現したのではなかったのでしょう。見せしめの虐殺・出雲部族内の裏切り・あちこちでの戦闘・反対勢力の徹底抹殺などがあったと考えられます。
最も恐れたのが出雲再興でしょう。
ですからその中心となる家系は、抹消しなければならなかったのでしょう。
このサイト面白いですね。
播磨、但馬、武蔵に
古代出雲の足跡がしっかり残っています。
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/15289522.html
古事記とちがう富家の伝承からの検証のブログです。
面白い!
大神山神社(相見家の祖先神アジスキタカヒコのことも書かれています。
http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/kodaiizumo/2013/02/
此処にもクナト神を祭る、古代出雲の神名備山として大山のことが書かれています。
http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/kodaiizumo/2013/06/
コメントありがとうございました。
私のここでの基本姿勢は、「学問」としてではなく「ロマン」です。
日本国内で作成された「ヤマト権力による統一以前を知る手懸かり」は記紀だけしかありません。
記紀以前に書かれたものがあったと「記す書物」があり、記紀が最古の書物ではないと主張する専門家もいます。
しかし実在しないものを云々することはできませんし、その「記す書物」が書かれたのは記紀以後です。
つまり悪く言えば「記す書物」は「後講釈書物」に過ぎず、その時の権力構造の意志による可能性があります。
ですからそれらの説は採用していません。
古事記に関して諸説ありますが、写本であれ実在することは確かですから、古事記を拠り所としています。
その古事記上巻には、山陰地方の地名が記されています。
いずれも日帰りできる距離ですから、地名の場所や神社に行き、そこに残る伝承や口伝を『直接』聞いています。
その中で、公表の許可を得たことに関してのみここに書いています。
現地訪問によって得た情報と、古事記の内容から推理したことを、ここで紹介しています。
富家ですが、現在こちらにはなく別の家筋があの地域を管理しています。
富家を紹介した方は、結局自身をアピールしているだけで富家のことは何も書いてはいません。
現在管理している家筋の当主とは旧知の間柄で、ざっくばらんに話せる関係です。
しかし富家に関しては「いずれ時が来たら、あんたには話す」と言うだけで、多くを語りません。
彼の現在の立場を考えると、時が来るのを待つしかないようです。
徐福に関しては、中国からの情報が多すぎることに何かしっくりしない感じを受けています。
新羅=秦からの難民建国説と同根ではないかとも考えています。
当時、秦と新羅地域間の往来は困難はあっても、可能だったと思われます。
同じく当時、現在の山東省から日本へ来ることは可能だったでしょうが、逆はどうでしょうか?
遣唐使の時代の船でも、確率はかなり低かったようです。
にもかかわらず彼は中国へ帰還し、更なる援助を受けて再度日本へ来たとされています。
秦の滅亡により、その後の史書では彼のその後を取り沙汰していません。
しかし例え一時期であれ、彼が日本列島での覇者となったのであれば、彼からその報が大陸にもたらされているはずではないでしょうか。
私は、国内各地の徐福伝承を直接調べていませんし、古事記を軸としていますので、ここでは触れないようにしています。
コメントありがとうございます。
旧知の家は秋上家かとも推察したします。
先日、出雲の神奈備4山にいってきました。
やはり大庭、山代地域は面白いというか凄いですね。
間違いなく出雲王国の首都だったんだろうと。。。
山代二子塚古墳の展示室いきましたが、現地やそこの展示資料を見ていろいろ考えさせられることがありました。
記紀や逸話も重要ですが、遺跡も重要ですね。
また、元熊野であったとされる天狗山(天宮山・熊野山)にもいってきました。
斉場や岩倉もあり出雲大社創建以前の古代出雲の鍵があるように感じています。
岩座の存在にも関心があります。
武内神社「武内宿禰」にも。。。
また、淀江の日吉神社の祭神がアメのササメすなわちアメノウズメであることにも惹かれています。
古代港(潟)のあった淀江(汗入郷)に妻木晩田遺跡や向山古墳群や上淀廃寺が存在する鍵が日吉神社にあるように思います。
もしかしたサルタヒコ(海神)は淀江?
古代史はロマンがいっぱいですね。。。
大山古道も歩いてきました。
坊領道も古道が最近開発されていて面白かったです。
次の勉強会の日程がきまりましたらまた教えてくださいませ。
楽しみにしています。
コメントありがとうございます。
次回の座談会は、10月17日(木)19:00より、皆生温泉の東光園にて開催されます。
お申し込みは、090-3374-6186(かいざわ)までお願い致します。