太平洋戦争が終わるまで、古事記を自由な発想で読むことはできませんでした。
このような環境を作ったのは、明治の維新政府です。それまでの徳川幕府政権下では、天皇家は将軍任命権を持つ我が国最高権威でしたが、最高権力者ではありませんでした。
古事記が一般の目に触れるようになったのは、本居宣長が古事記伝を記したことによりますが、これについてウィキペディアには以下のように書かれています。
医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年(宝暦6年)、27歳の時に店頭で『先代旧事本紀』とともに『古事記』の巻を購入した。
この頃、宣長は『日本書紀』に目を通しており、賀茂真淵の論考に出会って日本の古道に触れるようになっていく。
宣長が本格的に『古事記』研究に進むことを決意したのは、1763年(宝暦13年)の、真淵との出会いを果たした頃である。その翌年、1764年(宝暦14年)から『古事記伝』を起筆し、1798年(寛政10年)まで35年かけて成立した。
『古事記伝』は、宣長時代に存在していた『古事記』の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築する書誌学的手法により執筆されている。
さらに古語の訓を附し、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっている。
宣長は『古事記』の註釈をする中で古代人の生き方考え方の中に連綿と流れる精神性、即ち『道』の存在に気付き、この『道』を指し示すことにより日本の神代を尊ぶ国学として確立させた。
宣長の提唱する道とは『古道』のことである。