分からないのですから、真ん中をとって680年頃としておきましょう。
天皇の命令が出たのですから、稗田阿礼は情報収集作業に取りかかったはずです。ところが天武天皇が亡くなり、后が持統天皇(在位686~697年の11年)となります。
「夫が亡くなり、妻が跡を継いだ」と見れば単純なのですが、実は複雑な絡みがあります。持統は天武の兄である天智の娘で、二人の間の息子が草壁皇子です。
ところが天武は、持統の姉の大田皇女をも妻とし、大津皇子が生まれます。
つまり天武は兄の娘二人を妻とし、それぞれに男子が生まれたということです。現代の我々から見れば、兄貴の娘を妻にするなど考えられません。
それがご丁寧に、姉妹二人となると異常です。
しかし正当な血統を残そうと考える当時の権力者にとっては、当然のことだったのでしょう。
天智~聖武天皇系図
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・・・つづく