タケミナカタ≪その一≫
タケミナカタは、古事記に登場する神々の中でも最も謎に満ちた存在の一柱です。
登場場面は『葦原中国の平定』後半部分ですが、唯一「武力抵抗した者」として描かれています。
結果は、高天原の将軍タケミカヅチに負けて諏訪の国まで追いつめられ、「諏訪地方から一歩も出ない」と命乞いをして生き延びたことになっています。
その場面で大国主の息子として登場しているのですが、大国主の子孫を紹介する『大国主の神裔(しんえい)』に彼の名はありません。
ところが、彼の母親をヌナカワ姫とする説があります。
これはヤチホコ(=大国主とされている)が高志国(こしのくに)のヌナカワ姫を口説いたと書かれている『ヤチホコの妻問い(求婚)』場面によるものと考えられるのですが、
『大国主の神裔』に彼女の名もありません。
これは、「大国主とタケミナカタは親子ではなかった」か、「親子だが、後々の都合ではっきりさせない方がいいと編纂者が考えた」ことを意味しているのではないでしょうか。
次田真幸氏の古事記全注釈は「神名のミナカタは、ムナカタ(宗像)と関係があるらしい。この神は元来、大国主神とは関係のない、諏訪湖の水の神として祭られた神であろう」としていますが、「古事記はなぜ大国主の息子としたのか」に対する説明はありません。
ですから次田氏の古事記を読むだけですと、「???」となってしまいます。
次田氏の古事記全注釈にはそのような部分がたくさんあり、詳しく知りたかったら他の著作を読めということでしょうから私なりに調べてみました。
しかし過去の解釈の補足・補強程度で、納得の行く答えは得られません。
私は、古事記に『葦原中国の平定』場面が書かれているということは、古事記編纂の頃「出雲が高天原勢力に飲み込まれる時に武力衝突があった」という口伝が西日本各地の部族に広く残されていたからではないかと考えました。
部族の興亡に関わる問題ですから、現在のウクライナやパレスチナと同じように、タフな戦いと交渉が繰り返されたのではないでしょうか。
問題は、なぜ「タケミナカタが戦い、敗走したにもかかわらず殺されなかった」とされているかです。
・・・つづく