―「序」を読む ― ②
第三段では、古事記が完成する経緯を述べています。要約は以下です。
『43代元明天皇(女帝)の世になって、天皇家の威光が確立した。そこで元明天皇は(舅である天武天皇が発案した歴史修正作業を完成させようと)、和銅4(西暦711)年9月18日、安萬侶(やすまろ)に稗田阿禮の資料を編纂し書物として差し出すように命じた。
しかしながら古い昔の言葉による伝承を漢字で書き表すのは難しい作業だった。漢字の訓だけを使った表現(=漢文)では意味が通じにくく、音だけで書き表そうとするととんでもない長文になってしまう。そこである場合は一句に音と訓を混ぜて用い、またある場合は訓だけを用いて書き表した。その場合、内容が分かりにくいところには注を付けた。
また姓や名では、「日下(にちげ)」と書いて「くさか」と読み、「帯(たい)」と書いて「たらし」と読むといった類のものは、従来通りに用いた。
このようにして書き記したものは、天地の始まりから推古天皇の時代に至る。
そこで、天之御中主神から神武天皇の前までを上巻、神武天皇から応神天皇までを中巻、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とし、合わせて三巻を書物にして献上する』
ここでは、天武天皇の遺志を3代後の元明天皇が実現させたこと、そして記述作業そのものがいかに大変であったかを述べています。
字面だけを追えばそれだけのことです。
でも裏読みをしますと「天武天皇の皇后(父は天武の兄で38代天智天皇)で後継者となった41代持統天皇の世でも、天武・持統の孫である42代文武天皇の世でも、天武の遺志の実現はできなかった」となります。これは「持統・文武時代は、天皇家内部や各地の豪族をコントロールするには至っていなかった」ということです。
要約では簡単に「元明天皇の世になって、天皇の威光が確立した」と述べましたが、原文は歯が浮くような美辞麗句で元明を賛美しています。
これは、彼女の世になってから「天皇家内部も各地の豪族も天皇に従うようになった」ことを示しているのです。天武が亡くなったのは686年ですから、天皇に権威と権力を集中させるのに25年が必要だったということです。
・・・つづく