古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【38】

―「神話部分」を読む ― 黄泉の国 ③

続きを読み進めていきましょう。

かく白(まお)してその殿の内に還(かへ)り入りし間(あひだ)、
甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。

(イザナミが)そのように告げて建物の中に戻って行った。
ところがいつまで経っても戻ってこず、(イザナギは)待ちきれなくなった。

故(かれ)、左の御角髪(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の
男柱(をばしら)一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、
一つ火(び)燭(とも)して入り見たまひし時、

そこで(イザナギは)左の髪につけていた櫛の端の太い部分を折り、
それに灯をともして(=一つの灯りで)建物の中に入ったところ

ここで「一つ火燭して」と、単に「火を灯して」とすればいいところを「灯りがひとつ」と述べています。

宣長はこの点に疑問を持ったようで、このように記しています。
古代は灯りを必要とする時には複数灯すのが当然だったのだが、ここで「ひとつ」と但し書きしているのはなぜだろう。
日本書紀に「いま夜のひとつ灯りがタブーとなっているが、櫛のひとつ灯りがその始まりだ」と書かれているところがある。
それは後の世の者が付け足したようではあるが、昔から「ひとつ灯り」はタブーとされていた。
今ここで改めてこの部分が理由であるとしてもいいのではないか。
現に今でも石見地方では神に供える灯りをひとつとすることはタブーであり、櫛を投げることもタブーだと、その地方の人は言っている。

現代人の発想でこれを考えれば、答えは簡単です。
そもそも暗い夜は危険ですから、そこで行動する時には複数の灯りを持つようにしたはずです。
初めての場所で灯りひとつでは、明るさが足りない上に距離感も分からずとても危険です。
これは古代人の生活経験による知恵でしょう。
ですから神事でひとつ灯りをタブーとして、全ての者に意識付けるようにしたのでしょう。

・・・つづく

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