実は、禊祓(みそぎはらえ)の場所として「竺紫」→「千酌」にこだわるには訳があります。
ひとつは先にも説明しましたが、黄泉比良坂(よもつひらさか)と竺紫が離れすぎている点です。
黄泉比良坂と千酌の距離は、直線距離で16kmです。海岸沿いに歩き、船で中海(なかうみ)を渡ったとしても1日で行けます。
もうひとつは、偶然の発見です。
出雲風土記の千酌を地図で確認していた時のことです。長い定規で、広げた地図を押さえていました。その定規をずらした時、偶然にも千酌と揖夜(いや)神社を結ぶ形になったのです。
何気なく、定規に沿って揖夜神社の南側に目を移しました。そこにあったのは船通山(せんつうざん)の文字です。
より大きな地図で 竺紫=千酌 を表示
この船通山は、詳しくは後ほど説明しますが、高天原を追放されたスサノヲが降り立った地なのです。つまり、禊祓(みそぎはらえ)の場が千酌だったならば、スサノヲの生まれた場所と、スサノヲ支配地への出入り口と、スサノヲ降臨の地が、南北一直線に並んでいるのです。
禊祓の場所は、こちらの方が、どこだか分からない九州の地よりずっと説得力があるとは思いませんか?
おぉぉぉ 鳥肌が立ちました。
>ねえさんさん
コメントありがとうございます。
私も気付いた時、背筋がゾクッとしました。
まだこれからも続きますのでお楽しみ下さい。
この記事の直線上にイザナミが眠るとされるお墓山があるように見えるのですが、これも埋葬地の本命となる可能性があるのでしょうか?
ぽちさん、コメントありがとうございます。
休んでいたために、19年1月に頂いたコメントに気付きませんでした。
1年以上経っておりますが、賞味期限が切れるようなご質問ではありませんので、私なりの見方を書きます。
戦後間もない頃までは、お墓山の山頂は草原状態だったそうです。
そしてそこには、明らかに『お墓の様な盛り上がり』があったそうです。
しかし私が行ったのは戦後50年経ってからでしたから、山頂一帯には直径20~30cm程度の種々の木と灌木が茂っていました。ですから『お墓の様な盛り上がり』など分かりませんでした。
二度目には、過去の形をある程度知っている地元の人が一緒でしたから『盛り上がり』の場所を教えてもらいました。確かに盛り上がっていましたが、「言われて見れば、そうかな」と思う程度に山全体に同化しており、古墳に関して素人の私には分かりません。
同行してくれた人から、「以前地質に詳しい人を案内した時に『盛り上がりと、山全体の土質が違う』と指摘していた」と聞かされましたが、この点も私には分かりません。
更に、山頂の少し下に前回は気付かなかった小さな祠があり、その中の『球に近い形の石』を見せて下さいました。その石は、律令時代に地元の若者が『盛り上がり』から多数掘り出したもので、後日「とんでもないことをした」と山裾の神社に秘匿していたものだそうです。
その後山裾に住む人がいなくなり、その神社も朽ちて崩壊し、石も散逸したそうですが、ひとつだけ残っていた物を「山頂付近に返そう」と明治から大正の頃に祠を建てたのだそうです。
おそらく河原の石の中から球に近いものを集めたのでしょうが、その様な石が山頂に埋まっていたのが事実であれば、『盛り上がり』は人の手によるものと考えられます。
伯耆と出雲の国堺には、松江の神納峠・伯太の比婆山・南部町の母塚山・日南町のお墓山と四カ所の『イザナミ埋葬地』伝承地がありますが、個人的には位置・環境・雰囲気とも『お墓山』が本命のような気がします。