―「神話部分」を読む ― 大国主神 ③ 稲羽の素兎 – 3 –
因此泣患者。先行八十神之命以。
誨告浴海鹽當風伏。
(これによりて、泣きうれひしかば。 さきだちて いでましし、ヤソガミの命もちて。
うしほを あみて、風にあたり 伏せれと、をしへたまひき。)
この様な訳で泣き苦しんでいたところ、先に現れた大勢の神が「潮水を浴びて、風で乾かしながら寝ていろ」と教えてくれました。
故爲如教者。我身悉傷。
(かれ、教へのごと せしかば。あが身 ことごとに、そこなはえつと まをす。)
そこで教えられた通りにしていましたら、全身傷だらけになりましたと話した。
於是大穴牟遅神教告其菟。
(ここに オホナムヂの神、その兎に 教へたまはく。)
そこでオホナムジの神は、その兎に教えた。
今急往此水門。以水洗汝身。
即取其水門之蒲黄敷散而。
輾轉其上者。汝身如本膚必差。
(いま とく、このミナトに 行きて。水もて なが身を 洗ひて。
すなはち、そのミナトの カマのハナを 取りて、敷き散らして。
その上に こいまろびてば。なが身、もとの肌のごと 必ず いへなむものぞと、教へたまひき。
「今すぐにこの河口に行き真水で躰を洗え。そしてすぐに河口の蒲の花粉を取って撒き散らし、その上を寝転がれ。そうすればお前の躰は必ず元通りになる」
故爲如教。其身如本也。
此稲羽之素菟者也。於今者謂菟神也。
(かれ、教へのごと せしかば。その身 もとのごとくに なりき。
これ、イナバの しろ兎 といふものなり。いまに、兎神となもいふ。
そこで教えられた通りにすると、躰は元通りになった。これが因幡の白兎である。今では兎神と言っている。
「如本也」(もとのごとくに なりき)
ここの部分は、薬方(くすりわざ)が世に記された始めである。
大国主命が日本最初の薬効を示した神としているのです。
「素菟」 兎が白であることを最初に言わないで、ここでいきなり素菟(しろうさぎ)と書いているのはちょっと理解に苦しむ。「素」は「裸(あかはだ)」という意味かもしれない。そうであれば「シロ」とは読まないだろう。他の読み方があるのではないか、検討が必要である。
「菟神」 この神を祀る神社が今も有るのだろうか?詳細に関して地元の人に聞いてみなければならない。
故其菟白大穴牟遅神。
此八十神者必不得八上比賣。
雖負袋。汝命獲之。
(かれ、その兎 オホナムヂの神に まをさく。
このヤソガミは、必ず ヤカミ姫を 得たまはじ。
袋を負ひたまへれども。ながみことぞ、得たまひなむと まをしき。)
そこでその兎はオホナムヂの神に「あの大勢の神々は、絶対にヤガミ姫を娶ることはできません。(従者の様に)袋を背負っていますが、貴方が娶るのでしょう。」と言った。
この言葉通りにオホナムジの神がヤカミ姫を娶ることになったのであるから、兎はまさしく神である。
宣長は「兎神」とそれを祀る神社に興味を持ち、相当調べたようです。
因幡記からこの故事を引用したものがある。概要は古事記と同じだが、始めの部分が異なる。
それは、『高草ノ郡の竹林の竹の中に年老いた兎が住んでいたが、洪水で竹林が流され兎は竹の根に乗って隠岐の島に流された』というものであって、そこから帰るについては古事記と同じである。
また伯耆の人の話として
『伯耆ノ国、八橋(やばせ)ノ郡、束積(つかづみ)村に鷺(さぎ)大明神があり、スサノヲ命を祀るという。その村に大森大明神があり、オホナムジ命を祀るという。この両社の神主を細谷大和という。
地元では、鷺大明神を疱瘡(もがさ)の守り神として崇敬しており、幼児の疱瘡が軽症であることを願いに行く。
具体的には、その願を立てる時にまず神社にお参りし、竹の皮でできた笠をひと蓋借りて帰って家の中に置く。幼児の疱瘡が大難なく癒えれば、返礼として借りてきた笠に同じ作りの笠をひとつ添えて神社に奉納する。これらの笠は全て神の前に積み重ねて置き、後に願掛けに来た者がひと蓋づつ借りて帰るのである。
この束積の辺りに木ノ江川という大河があり、その川が海に流れ込む所を鹽津浦といい隠岐の知夫里(ちぶり)の湊の対岸になる。
ところで、因幡の気多ノ郡は伯耆との堺で束積村とは五六里離れているそうであり、(古事記に書かれている)因幡の気多の前(さき)とは合致しないが、兎神はこちらの社に祀られているのであって鷺(サギ)は兎(ウサギ)の間違いなのではないか。
疱瘡(治癒の)願掛けも(皮膚の患いであり)ここに書かれている(兎の皮膚治癒)内容と関係している。
和名抄では、束積ノ郷は汗入ノ郡である。なのに八橋ノ郡としているのは、今は八橋ノ郡に属しているからであろう。
(以上から)木ノ江川河口の鹽津が、蒲黄が獲れる場所か調べてみなければならない。
貝原益軒が紹介している伯耆ノ国素兎大明神とはこの神社(鷺大明神)のことではないだろうか。
高草の郡とは、現在白兎神社がある地の古名です。
ところが兎が洪水で流された話は、鳥取県大山の裾野地方に伝えられています。
宣長が古事記伝を書いている頃(1764~98年)、白兎神社は認識されていなかったようです。白兎神社の由緒には、戦国末期~江戸初期の慶長期(1596~1615)に鹿野城主であった亀井氏が「夢のお告げ」により社殿再興に手を付け、1670年に本殿を建立したと書かれています。つまり宣長の執筆中の建立ですから、遠隔地の人は知らなかったのでしょう。それより疑問に思うのは、亀井氏が再建を考えるまでの長い期間、地元民が白兎神をどう受け止め、扱っていたかです。
・・・つづく
※注:
青字 … 本居宣長『古事記伝』より
赤字 … 古事記おじさんの見解です。