特集:「国譲り」とは何だったのか【其の二】

高天原勢力が傘下に治めたのは、古代出雲勢力の中心的地域(=古代出雲王国)であった、現在の島根県多伎町から鳥取県大山町中山辺りまでの全てであったと思われます。

後年、そこに新しい秩序の象徴として立てられたのが、杵築(きづき)の大社(おおやしろ)つまり現在の出雲大社です。

659年に、その造営を命じられたのが「出雲国造家」で、798年に「出雲国造」が杵築大社に移住していることは述べましたが、命じられた時の「出雲国造家」は風土記時代に意宇郷(おうのこおり)と称される地域の神魂(かもす)家だったはずです。
つまり島根半島側の勢力ではなく、松江地域の勢力です。

出雲大社の社伝では、一回目の造営が垂仁天皇時で、二回目が斉明天皇時となっているそうです。
しかし垂仁天皇の在位は、紀元前29年~紀元後70年の99年間となっており、その存在も疑問視されている天皇ですから、一回目の造営は眉唾です。
二回目の斉明天皇時というのが659年ですから(日本書紀に記述)これは間違いないでしょう。

この時の大社がどのような物であったかは分かりませんが、問題はその造営費用の出所です。
高天原勢力(後の中央権力)が命じたのですが、費用を出したとは思えません。
何故なら、この659年というのは、阿部比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷を平定した年で、その前年には有馬皇子(ありまのみこ)の謀反があり、中央権力に人的・資金的余裕があったとは思えないからです。

では誰が資金を出したのか?

杵築大社の造営は、「出雲国造家」を拝命した神魂家が、出雲一帯から人と資材を拠出させたと考えるのが自然ではないでしょうか。
659年に造営命令が出され、798年に「出雲国造家」が杵築地方に移ったということは、その間に完成した訳です。

しかしいつ完成したかは、はっきりしません。
現在平成の大遷宮工事の真っ最中ですが、現代の輸送能力や技術によっても年単位の仕事です。
全てを人力に頼っていた古代なら10年単位の仕事だったはずです。
伝えられるように、現在の規模より遙かに大きな建物であったなら、軽く見積もっても50年以上の時間が必要だったはずです。

この造営に必要な資材集め・加工・建設を地元の人力で行ったと思われますから、地元即ち古代出雲王国地方の負担は過酷なものであったと想像できます。
これは江戸時代の参勤交代同様に、勝者が敗者を疲弊させる手段だったのではないかと考えます。

大社は何度か倒壊し、建て直されたと伝えられています。

その度に再建を強いられれば、古代出雲王国地方が中央権力に対抗するエネルギーを蓄積することは不可能であったはずです。
時の中央権力にとって「古代出雲王国」とは、こうまでして押さえつけなければならない程に脅威を感じさせる存在だったのではないでしょうか。

「国譲り」とは何だったのか【其の三】へつづく・・・

【特集】「国譲り」とは何だったのか
 https://www.kojinazo.net/?p=43
■「国譲り」とは何だったのか【其の一】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1355

■「国譲り」とは何だったのか【其の二】
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■「国譲り」とは何だったのか【其の三】
 https://www.kojinazo.net/?page_id=1359


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