古事記編纂の理由は、「序」の部分に書いてあります。
ところがその「序」は、後年付け加えられたとの説があります。
勿論そうではないとの説が主流なのでしょうが、どちらが正しいかの決着はついていません。
双方の言い分に関わり合っていますと前へ進めませんので、私は素直に読むことにします。
「序」は三段に分かれています。
第一段は、天と地が分かれた頃から第十九代允恭(いんぎょう)天皇までのことを簡単に述べているのですが、ここでのポイントは二ヶ所です。
ポイント1は、神代の部分の最後
「安河(やすのかわ)に議(はか)りて天下(あめのした)を平(ことむ)け、小浜(をばま)に論(あげつら)ひて国土(くに)を清めき」と書かれている部分です。
これを一般的感覚で現代文にすれば
「安の河(高天原にあるという河)で神々が相談し、出雲のイナサの浜で(タケミカヅチの神と大国主神が)交渉して、葦原中国(あしはらのなかつくに=古代出雲地域)を平定した」
です。
ですが神道的感覚ですと
「安の河で天下平定を神々が相談し、(タケミカヅチの神が)出雲のイナサの浜で(大国主神を)説き諭(さと)して、国土を清めた」
でしょうか。
どのような立場で訳すかで微妙に表現が変わり、受け取り方も変わります。
しかし、「平定」つまり「嫌がることを無理矢理させた」ということを、冒頭で述べているのです。
ポイント2は、「序」第一段の最後の
「古(いにしへ)を稽(かむが)へて風猷(ふういう)を既に頽(すた)れたるに繩(ただ)し、今に照らして典教(てんけう)を絶えむとするに補はずといふことなし」
と結ばれている部分です。
古事記全訳注(次田真幸・講談社学術文庫)では
「古代のことを明らかにして、風教道徳のすでに衰えているのを正し、現今の姿を顧みて、人道道徳の絶えようとするのに参考にならぬものはない」
と訳していますが、これでは読み下し文と余り変わらず、よく分かりません。
現代語古事記(竹田恒泰・学研)では
「古を顧み、すでに衰えた道徳を正そうとされ、また、今を照らして、絶えようとする正しい規範と教えを補おうとされ、これらを厭うことはありませんでした」
と訳しており、何となく分かるような気がします。
もっと分かり易く意訳すれば
「過去をきちんと調べ、人としての正しい生き方が失われていることを正そう。そして、現状をよく見て反省し、人の守るべきルールが消えかけている状態を改善しよう」
となるのではないでしょうか。
要するに、世の中が乱れて収拾がつかず、何とかしなければならない状態だったということです。
「序」の第二段、ここに古事記編纂の理由が書かれています。
天武天皇の言葉として書かれている部分です。
「諸家に伝わる天皇の事績を記したもの(帝記)や伝承(本辞)は、真実と異なっていたり偽りが加えられているものがはなはだ多いと聞く。今きちんとしておかなければ、いずれ正しい史実が失われてしまうであろう。それらは国家組織の原理であり天皇統治の基本となるものである。故にそれらを調べ直し、偽りを削除し正しいものを選別して、後世に伝えようと思う」
要するに、全国各地にある諸説を一本化しようということです。
それには「偽りを削除」し「正しいものを残す」作業が伴うのですが、その判断基準は編纂させる側つまり天皇の命を受けた者が持つということです。
或る地域に真実を伝える伝承が残っていたとしても、編者が不都合と考えれば、削除されたり内容が変更されたりしたかもしれません。
とは言っても、各地の部族が知っていることを極端に変えることはできなかったはずです。最も変えにくかったのが、「場所」だったはずです。
誰もが「A地」であったと知っている史実を「B地」に書き換えることはできなかったでしょう。
「序」の第二段には、もう一ヶ所注目すべき記述があります。
それは冒頭部分の
「飛鳥(あすか)の清原(きよみはら)の大宮に大八州(おほやしまくに)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に・・」です。
現代文にすれば
「飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)で大八島国を御統治になった天武天皇の御代に・・」
ですが、注目点は大八島です。
大八島というのは、イザナギ・イザナミの国生みでできたとされる八つの島ですが、できた順に淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島の七島と、大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)を加えた八島で、日本という意味です。
七島までは分かり易いのですが、大倭豊秋津島がどこを意味するのかです。
訳者によって「大和を中心とする畿内地方から中国地方=近畿以西」説と、「本州全部」説があります。
ところが少しあとに「・・人事共給(そな)はりて、東国に虎歩(こほ)したまひき」と書かれています。
現代文にしますと「・・天皇に従う兵も集まったので、東国に進撃なさいました」です。
東国とはどこか? 学問的には細かい解釈がありますが、大雑把に言えば近畿から東、蝦夷(えみし)の支配していた地域です。
この記述から考えれば、大倭豊秋津島は近畿と中国地方となり、古事記に書かれている時代の日本は西日本だけということになります。
「序」の第三段は、まず元明天皇(707~715年)を大賛美しています。
その上で、元明天皇が和銅四年(711年)九月十八日に、正しい歴史の編纂(今で言う)を命じたと述べています。
(しかし、天武天皇と元明天皇の間にいた持統(じとう)・文武(もんむ)の二天皇の時に、歴史編纂作業が行われていたかどうか伝える記述はありません)
更に、稗田阿礼(ひえだのあれ)の口述を文字で書き記すための校正に難儀し、真意を伝えるために注を用いたことを述べています。
要は大変な作業であったが、正しい歴史を記すべく腐心したと書いている訳です。
そして最後に、和銅五年(712年)正月二十八日の日付と編纂責任者太安万侶(おおのやすまろ)の名前が記されています。
序の全てを要約しますと、天武天皇が稗田阿礼という記憶力抜群の若者に全国の伝承の暗記を命じたのですが、阿礼の頭の中の情報を書物として編纂するように命じたのは、三代後の元明天皇で、苦労の末わずか四ヶ月強で完成したということです。
さっと読めばそれなりに納得できるのですが、何か引っかかるものを感じます。
次回からは、天武→持統→文武→元明の関係を見ながら、古事記の完成までを時系列で追ってみます。
【天智~聖武天皇系図】
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